昭和40年08月26日 夜の御理解
御祈念をするというのは、これは神様でも仏様でも、宗教と名のつく神を対象として祈念を凝らす時に、そこに呪文的なもの、いわゆるお経、経文とかまたは大祓いと、拝詞といったようなものが、必ずある。それは大変もう難しいことなんだけれど、例えばあの大祓いなんかでも、天津祝詞にでもそれぞれに意味があることだと、私自身がその内容がどういうものなのかは知らない。
確かに教祖の神様も信心に向かわれる時には必ず大祓い、6巻なんですかね大祓いとか、般若心経なんかを上げられた。それが段々天津祝詞、大祓いというふうお道では段々、・・・・・?いまでもその・・・?天津祝詞とか大祓いとか、神道からきたのであるから・・・・・?それはどうでもよいと私は思うけれど、経も確かにやはり何百巻という経文のなかから選び出された経文が般若心経であるように、古事記なんか人間の力以外のものによって出来たお書物なんですけれども、そういういわば真理の書です。
そういう中から抜粋されたのが大祓いだと、天津祝詞ということを聞いております。私よく知りませんけれど、そうです。ですから、そういう意味合いでやはり尊い言葉が連ねてあるわけなんです、その尊い言葉を奏上するのであるから、それもあり難い、けども本当言うたら、その目的はどこにあるかと、神様に打ち向かわせて頂く一つの手段なんです。神様へ向かう、ですから、
あれは自分というものを本当に無我の境地というかね、無我の境地にしていくためにたとえば、なら日蓮宗なんかは、うちわたいこを叩いてね、一生懸命南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と叩いて熱狂してくる、熱狂してきたら何がなんやら、誰がなんといっておろうが、熱狂的なその、それが呪文的になって、そのあげた、その捨てられた・・?にもう本当に無我夢中であげておるから、
もうなんにもないですから、やはりその後が爽快な気分である。気分がいいのであり、はあ、ほんと無我夢中で御祈念したのであるから、仏様ももう聞いて下さっただろう、という気持ちが強うなる。これは大祓いでも同じこと、ね、ですから必ずそうだから、大祓いことはいらんのである。もう本当言うたら、例えばあの仏教の木魚なんかもそうである、コツコツコツコツコツ一つのリズムの、リズムというものを、リズムに乗って自分の心がそこに集中する。
実にやはり長年の伝統をもった宗教だから、洗練されておると思うね。金光教もまた、そういう意味合いにおいて、木魚ができてもよかれば、うちわ、大鼓のようなものが出来てもよかろうと私は思うくらい、ね、けどやはりそこには、あの誰が見ても合点がいくようなもの、だからいうなら、これを経文とか大祓いではなくて、いろはにほへとちりぬるをとかでもいいわけなんです。
ABCでも、もちろん良い訳なんです。一、二、三、四、五、六、七、ハ、九、十、一、二、三、四、五、六、七、ハ、九、十というても良いわけなんだ。そうだろうが、ね、その一つの、そう神様にいよいよ心を向けていくために、経でもねこれがここに一つ心に思わなければならない事は、無我夢中になってはならないということ、ね、無我にはならなければならないけど、夢中になたらもうこれは狂的である。ね、狂信これは信心の薄い、薄い者ほど狂信しするである。ね、いわゆるきちがい信心というのである。
私どもはそれを非常に軽蔑したですね、あの大祓いあのあちらに、ご本部参拝させて頂くと、いまはあそこで大祓い上げられなくなっている、朝晩の御祈念のときだけ、けど以前は、ついこの頃まではですね、あそこで一生懸命大祓いをあげてよかったんです。ですからもう四国あたりから参った人達なんかは、もう・・・・?ここにこうやって、膝をどんどん、打ち付けてここにこうやってやりだす。
そりゃもう見ておって、一生懸命でご本部参拝している、私達でもおかしいなあ、と思いよった。ね、あげな拝み方、ありがその奥城どんでやるもんなら、膝がたまったもんじゃなか、ひざを打ち割ってしまう、というごと本当ある。だからそれがいけないのじゃない、自分がいい、自分だけが、無我夢中で神様にうち向こうて、人がキチガイというても、いいのだから、それでいいのだけれども、やはり皆が合点する、信心でなからんといかんということね。
そこで私達はあの、もう十五年にこの前に、あの五年あまりの朝の御祈念なんかお参りが少ない時には、もう私は拍手も打たなかった。もうご神前に朝出たら、出たらそのまんまついつい1時間なんぼずーっと神様に祈念を凝らすだけであった。もう、このことをもっとはっきり言うならばね、もう私は拍手を打つと神様のほうが面倒くさがらっしゃる、というような時代があった。もうはよ座れ、はょ座れとこう、はよ話し合いたい、というようななんだった。
もう座ったら最後頭を下げ、そのかわりもう、神様との交流が始まりよった、拍手を打つ暇は無い、けど皆さんの場合なんかは、神様がずうっとそりゃ向う向いてござるかもしれんから、拍手を打ってからこっちを向いてください、とこういう訳なんだね。お扉開いてくださいというような、だからやはりこのパンと柏手一つの上にでも 心しなければ、澄みきった音が出たら有り難いと思うだろう、ガッチャという音が出たら何か気分、まいっちょうちなおそうごた気がする。
こんなとこから稽古しなきゃいけんとおもうね、神様がほっと思うてから、どっから音がするとおもうてこっちを向きなさるような音が出るようにならにゃいかんですね。ほんとよ。ですから、そのこれはひとつ人間は感覚というものがあるからね、神饌物なんかでもああして麗々しく、賑々しゅう飾るだけではなくていいんだけれど、やはりお参りさせていただいた者は、はあ、かばめのごヒレイとこう思う。
したら私達も賑やか、おロウソクが両方に赤々とこう燃えていればね、自分の心がなにか知らんけど、赤々と燃えているような気がする。両方に生き生きと、榊も青葉が立とりゃ、心生き生きとしてくる、とためにするのに、その前にお榊が枯れとったりしたらどうするか、ご神前にゴミだらけにしとったらどうか、もうお供えちゆたら、半分だけちょこっとだけしてあったんじゃ淋しいという気だけで、ここの教会はごヒレイが立たんばいの、ちいうたふうな気もちで拝みよるけん、自分の心のヒレイがもう落ちている。
だから、あのお榊を持ってここについた、(?)んならわざわざ飾りたててよかばってん、神様のおかげで集まった物だけの場合は、わたしは月次祭から月次祭まで、見信心を淋しくしてはいけないというのは、見せびらかすのでもなーんでもない、神様に打ち向かう心が有り難く、賑やかな心で、そのうち向かうために私はああしているだけのこと。ですからもう本当に段段だから信心が。
まあその本当のおかげを頂いてくれると、いまいうように拍手もいらなければ、天津祝詞もいらない、なるほど三代金光様なんかはもう全然拍手をおうちになっていなかったんだよね。もうお座りになったら最後、頭をさげられたっきり、もう御祈念に入っておられた。わたしどんは、もう五年前に、十年前に神様と、ところが、こう後ろに参っておる大衆の立場になってみると、そうじゃなっかたら淋しい。
だからこちらも、じっと自分の信心を、まあいうなら、その落としてそれぞれ一緒に御祈念をすることのようにようになってきたようなものなんだ。それでその、まあ、色々工夫させてもらい、もちろんその天津祝詞、大祓いのどれいいかといった勉強をする事も、勉強するチヤンスがあったら、しなければならんけれど、それは別にわゆるい1234でもよから、あいうえおでもいいと私は思うくらいだから、ね。
それでもそれを今度は奏上さしてもらう、最近ご祈念が こうやって若先生が先唱に皆が御祈念をさして頂いて、段々段々熱が、もう一番初めの先生があのう、先唱しておる一巻なんかは実に頂いておってから、もう皆が身が引き締まる思いがするね、今日のなら誰でも。それが二巻目になり三巻になってくると、もうチョット熱狂気味になる、ね。だけれどもう、こうこう前後左右に揺れるようになる。
これは、これがひとつあのお動じというのがあってね。私達はジッとしててもすぐ、体がこう揺れだす。心が精神が統一ができるとね、もう止めようと思っても止められんくらいに、こう左右前後に揺れる。これはもう実に有り難い御祈念ができる。だから、一人で御祈念する時なんか、そういう稽古をさして頂くといい。皆、ね。体がこう揺れる、それを止めようと思うても止められんくらいになる。それでも例えばその一生懸命の大祓いを上げる度に、ハァハァハァち言わんようになると大分違う、ね。
ほいでその、勿論御祈念そのものが修行なんだから、そういうことでまあ、いけないんじゃない。決していけないんじじゃない、でもね、それはもうあの光昭なんか、もうこうこうやって熱狂的なその狐つきじゃなかろうかちゆうごつしてから拝んでいる。はあ、感心だと私は思うですが、んならね、自分も本当にね、一生懸命になるもんだから、神様も一生懸命になんなさるでしょう、ね、
一生懸命になんなさるから、その感激がこちらへこう、交流していって、もう貫泣している、光昭の場合は、この若さでああいう御祈念ができりということは有り難いけれども、それでも椛目の金光様の息子は狐付きじゃ、ちゆうごつなったらならんもんだから、ね。椛目の御ヒレイにかかわるね、そしてそん時んことは、神様にお願いしょったらさ、ね、紙緒の草履を頂いた、
ご本部参すると宿から奥城まであの靴じゃできんから、紙緒のぞうりを買うだろう、これは昔、皆お葬式んとき履きよった、紙緒のぞうり、ね、あれはそん時一辺ぎり、神聖なもんではあるけれど、一辺ぎりなもん。たとえばある熱狂的な御祈念をしてから、そん時が気持ちが良かったり泣くごと有り難いけれども後はすっとするもの、いわゆる紙緒のぞうりてきなもの。
金光様の御信心はどこまでもね、それこそ靴を履いておるように、しっかり下駄を履いておる、足元がしっかり、いつもたとえば有り難いという稽古をするのが、足元が狂わないというのがお道の信心、ね。御祈念しておる時だけではいくまいが。それで、ならたとえば誰が見ても、たとえば今日そこの重子さんが参ってきて、重子さんがちょうどその最中に参ってきてから、もうここで泣き出してしもうてから、お届けができんぐらいあった今日、若先生の御祈念を頂きよったら、もう有難うして有難うして、とうとう大祓いが上がらんごと有難うありました。
ここ幾日がご無礼しておりましたが、今日から腹を入れ、心を入れ替えて本気で信心さしてもらいますと言うて感銘してです、ね参ってくる誰か一人がそういう人がある、だからあの時間に神ながらに神様がお引き寄せを下さる人はやはりそういうおかげを頂いておる、上野さんちでもそう言うていた、もう身が縮むような思いがする、とこう言うておった。
けれどもそのあと先にっちょっと不思議と思っのは、はあ、あげな一心の御祈念がありよ時に、参ってくりゃよかとこにと思うように後に参ったり、先に参ったり、済んだ後に参って来る人達があった、ははあ、だから言うならば、この人達にはこの様は見せられないていう事だたと私は思うたね、あら、ちょいと金光様の信心も親先生は合点がいくけれども、若先生やらまだほかの若いんなら光昭先生やらまーだ子供やらん人たちがあげんこつしよってから一人一人泣きどんさっしゃらんじゃろうか。
信心きちがいならせんじゃろうか、ちゅうごたある不具の念さえ、人に与えるようなものではならない、ということ。金光様の信心はどこまでもですね、今日の御祈念を頂きよったとき、スマヨおばちゃんが、頂いておる御心眼にね「山下勇吉」。と頂いている。山という事は修行という事、下という、だからもう修行、ああいうたとえば、修行では下の一ということ、ね。
けれどもこれは実に尊いことなんだよね、下から登らなければ上には上がられない、始めから上の修行が出きるはずは無いと、ね。勇吉とは勇ましい、吉、勇ましいことを吉とする、只、修行としては下の下だけれど、ね、そのあの勇ましい御祈念、あれだけは神様はよし、と受けて下さっている。しかし素晴らしいね、私は椛目で信心のけいこをさしてもらいよると、ここがありがたい。
例えば、ありがありがたい、ちいうてから、もう・・・・・?ほれこそもうワンワン泣いてから、ちいうて、もう、こんだ皆が・・・・?参ってこんようになるらしい、見よってごらん。そうなったら、いよいよ椛目の信心もおかしいなぁということになるよ、こんだ、また非難の的にならんともかぎらん、非難の的になったてかまわん、人が助かりさえすれば。けども教祖の神様の御信心はね、決してそういう意味合いにおいて助かるのではなく、もうどこまでも話を聞いて助かるということなんだ。
御祈念をして助かるということじゃないと。同時にね、あの御祈念のとき先生が言っておられた、これは頂いた御心眼にはね、フライパンに油がどんどんんできていきよる、そのまま青い豆を揚げて、あのビールの肴なんかにする豆があろうが、ああいうような信心修行させて頂きながらしっかりしとる人はですね、たとえばほんな、本当にたまったビール豆、豆ということは健康ということ、豆で達者でというだろう、ね、
例えば人は難儀な助からんと言いながらでも、この油がありゃ、これで熱をかけりゃすぐ揚げられるようなね、そのおかげを受けれれる元をつくっておることだから尊いことだとも頂いた。けれどもそこも頂き、ここも頂きして誰でも合点のいくと、今朝のご理解に神徳人徳を頂いていくという意味合いにおいてはね、もう本当に若先生が一番初めに奏上するあのような御祈念、ね、
いわゆる形一つ崩さない、ほんに、そこから朗々として大祓いが上がっておる、はぁとも有り難い、その段々その目つぶって、こやって体が崩れてくる、して、いわゆる熱狂的になっては信心はいけないということ、ね。そりゃ、感激の坩堝というから、それは有り難いんだけれどもいわば、これは本当に一つの修行の期間だけであってから、いわゆる修行の内では下の下であり、ただ勇ましい、その例えばそういう修行、若いもんの時でなければできないような修行をです、神様は受けなさらんことはない。
それよりただ勇ましいことをよしとするとおっしゃる。だからこれ一生懸命、だから、あのう徹さんやら・・・・・・・?腹のそこから上げられるような、いわば発声法なんだね、歌じゃないけど、発声法を研究しなければいけない、ね。これからでける、始めの内は中々出らん。これは御謡いのなかにいってもなかなか出らん、腹から腹からと言われてもなかなか腹から出てこんもん。
だから発声法をするともっと何かしら重いね、もう、その朗々としたここから声が出てくるようになる。それで例えばこうみんながその綺麗な行儀の良い、姿勢の良い御祈念が出来たら、素晴らしいとね。今日でもまいっちょ思わんならん事は、あの例えば私がなら先唱なら先唱に私がありがたく、もし自分の一つのリズムというかね、自分のどうしで御祈念をさして頂いておるそうなってきた時。
んなら割れるような大祓いが入ってきたら、もうその人も壊してしまう。だからこう朝の御祈念の時、皆の祈りの時には、中心に上げる人のそのリズムに乗っていなればいけない。だから一生懸命に上げても、それとおんなじ節にならないかんちゅう、リズム、それが壊れちゃならん。これはもう一つの大祓い、お広前いっぱいの大きなリズムになるんだからね。あれに乗って上げていく。
いわば有り難さといったようなものがやはり大事なんだ。こういうところを一つ心してからひとつ明日あたりの御祈念から、昼の御祈念する人達は心がけなければいけない、ね。同時に金光様の御信心はどこまでも拝んで助かるのではなからなければ、ね、例えばなら表行、表行よりは心行をせよ、とこう仰る、表行をしてはならんとは仰らん、けども心行さして頂かせて頂くためには、過程なのである。
本当の例えば修行の一つの過程なのである。ね、ですから、もうどこまでも話を聞いて助かるという話を聞いて自分の心の上に改まっていく、心の上に御教えを行じ抜かせていただくという修行が一番、これだったらそれこそ紙緒の草履ではなくて、いつでも足元をしっかりしていくことができる。そういうようなこともやはり知って、そして御祈念頂かなければいけないと私は思うですね。
どうぞ脇から見てもだけど自分でも有り難い、脇がら誰が見ても・・・・?例えば神様のご都合でそれに触れてから有り難いと、今日の重子さんのように、今日の上野さんの、もうとにかくそれに触れてきた人がもう本当にありがたいと言うておる人達ばかりが集まってくれば良いけれども、その後先の人達がもし、あの中に入ってきたら、例えば金光様の御信心じゃない、私の信心はひよっとすると低級視するかもしれない。
それは私達が四国の人達の御祈念ぶりを見てから確かに私達は軽蔑しとったもんね。あげんしてから、神様を拝み倒すごつしてから、おかげをもらおうち思いござる。ね、拝みたおさじゃつまらんとじや、ね、どこまでも、一つあの本当に自分の気分と言うかね、自分というものを空しゅうしていく、無我になるために大祓いを上げるのである、だからある意味合いでは。
1234でもよからければ、いろはにほへとでもよかりゃ、A B Cでもいいのだということ、ね。いわゆるほんなら、教祖の神様でも神様の前でやっぱり般若心経を上げておられたということである。けどもそれをわざわざあんたたちが、A B C言うことはいらん、やはり大祓いを拝ましていけんと思うけれどね、それを大祓いを奏上させて頂くのも、自分のやはり、自分というものを空しゅうするために。
無我になるための一つの手段であってね、夢中になってはならないということ、無我夢中ではいけない。そんなことを気付かせて頂いた、と同時に私が頂いたこと、スマヨの頂いておるところの、「山下勇吉」という信心の一番下から、そういうところから段々信心が、信心の修行が本当な修行へ、本当な修行へとたどらしていただいておかげを頂いていかなければと思うね。
どうぞ。